f/q交換日記(2025/09/24・水上文)
ものすごく遅れてしまってごめんなさい。水上文です。
近藤銀河さん、小沼理さん、瀬戸マサキさんと私――クィアなライター達によるこの交換日記は(主に私が遅れたせいで)まだ一周目なのだけど、すごく素敵な企画で、わくわくしながらみなさんの日記を読みました。今回は5回目で、他のみなさんの日記は以下から読めます。
それぞれの異なる日常があって、でもプライドマンスについてとか、共通するところもあって。何気ない日常がありつつ、日常それ自体が抵抗の側面も孕んでいて、みんな自分の問題意識を日記に入れ込みつつ書いている。こういう交換日記はなかなかないし、書き手としてだけではなく、いち読者としてもすごく楽しく読んでいます。
さて、じゃあ早く書けよって感じだと思うんですけど(ごもっとも)、なかなか書けないまま時間ばかりが過ぎてしまいました。
言い訳すると、まずひとつには、6月の終わりから9月の始まりまで約二か月間カナダにいて、その間にあまりにも色んなことがあって、何から書けばいいのか悩んでいたためだと思います。私はこの二か月の間、トロントのトランスマーチに参加して、警察の参加を許している主流プライドに対するカウンターデモにも参加して、ダイクマーチを少しだけ覗いて、広島と長崎から80年の節目の夏をトロントで過ごして、被爆者で今も核兵器廃絶のために活動を続けているサーロー節子さんの講演会に行って、パートナーの友人達(ほとんど全員が有色人種のクィア)に日々会って、川遊びをしたりもして、日本からカナダに移民したクィアや女性たちとも知り合って、それから週5日で語学学校に通ってもいました。盛りだくさんですよね。しかも、そのすべてが強い印象を残す出来事でした。プライベートでも大きな出来事があったし、もっと全般的なこと、英語を使わなければならない生活の中で感じたこととか、ブリュワリー巡りとか、カナダの桃(日本の桃とはだいぶ違う)が美味しいとか、初めて中東料理を食べたとか。そういう、日常的な発見もありました。
言い換えれば、書くべきことも、書きたいことも、十分にたくさんあったのです。
なのにどうしてなかなか書き出せなかったんだろう? それはおそらく、言葉を研ぎ澄ませることへのモチベーションが下がってきているから。
ライターとして活動しているにもかかわらず、こんな風に言ってしまっていいのかわからないけれど、端的に言って、自分の考えを言葉によって明快に伝えることに、うまく希望が持てなくなってきたのかもしれない、と思います。
そしてこんな風に思っている。
言葉を研ぎ澄ませることは本当に重要なんだろうか? 研ぎ澄ませて、細やかな違いや共通点も含めて書き記し意思疎通を図ることは、本当に何かの役に立ってるんだろうか?
もちろん、重要ではあると思う――私の文章を好きだと言ってくれた人たち、読んでくれている人たちがいることを知っているし、それにずっと救われ続けているから。
けれども同時に、ああ、疲れた、とも思っているのです。
私はずっと昔から本を読むことが好きで、文章を書くことも好きで、得意で、それによる恩恵をたくさん受けてきたと思うけれど、そして読むことと書くことによって間違いなく様々な場面で救われてきたけれど、それでもなんだか、疲れてしまった。
この感覚にSNSが大きく関係していることは間違いありません。
多くの人に届けたいことがたくさんある、伝わる言葉を探さなければ、と思う一方で、なんでもない日常のささやかな呟きも含めたあらゆる言葉がジャッジされ、時に歪められ、本来なら似たような考えを持っているはずの人達とも協力関係を結ぶよりは断絶ばかりが深まっていくように感じること、直接話していたら起こらないだろうすれ違いやいさかいが日々起こり続けているところを見ることに、疲れてしまった。
ずっと存在していた疲弊が、カナダにいる間に、一層強く自覚されたような気がします。
拙いばかりの英語で色んな人とやり取りをして、それなりに絆が生まれたように感じるたび、なんだ、こんな拙い言葉でもいいのか、こんなに言葉が上手く出来なくても、大事だと思える人間関係は作れるのか、と思うたび、嬉しいと同時に、それなりに巧みに操れる日本語で起きる様々な衝突に対する失望が、さらに高まるような気がしました。
もちろん言葉が出来ないからこそ見ないで済んでいるもの、たった二か月の滞在だからこそ良く見えているものはたくさんあるだろうけど、時々インスタグラムに投稿する他にはあまり文字中心のメディアを見ていなかった(その暇もなかった)カナダから帰って、またツイッターなんかを見るようになって、なんだか本当に、ああ嫌だ、と思いました。
いまいちな英語力のせいでぼんやりと膜を張ったように曖昧だった光景が、突然高解像度の、細やかな日本語空間に切り替わって、疲労が押し寄せました。
風景をぼかしてしまうような膜なんてどこにもないのに、何もかもがクリアである分、あらゆる言葉がふと気を抜けば全て棘になるような、そして摩擦ばかりがどんどん生まれるような、そんなものに、認識が切り替わったように思いました。
言いたいことは山ほどあって、言える言語能力も十分にあるのに、何も言いたくないような気がして、仕事ではない文章をなかなか書けずにいます。
そんなわけで最近は、めちゃくちゃな英語の文章をちょっと書いてみては、ChatGPTに添削してもらう遊びをしています。本当にたいしたことは書けないのだけど、それでも「書く喜び」があるのだから不思議です。何が楽しいのか自分でも上手くわからないのだけど、とにかく気晴らしになるので、続けています。これって結局のところ、私はやっぱり書くことから離れられないということなのだろうか、と思うこともありますが、正直あまりにも拙いので「書いている」という感触もなく、何に喜びを感じているのかも不明瞭です。書くってなんだろう?
いずれにしても、これまで極力ChatGPTを使わないようにしていたのだけど、ついに使い始めてしまった。添削は正確な気がするし、あまりにも便利なので、このままChatGPTが発達すれば私の仕事もなくなるんじゃないか、書評も何もかも人間が書く必要がなくなってしまうのではないか、いつまで人間が書く仕事ってあるんだろう。とぼんやり思っている今日この頃です。なんだかテンション低めで申し訳ない。
みんなは、書くことについて最近どんな風に感じていますか? 教えてもらえると嬉しいです。

